「規制サンドボックス」——この言葉を聞いたことがある起業家は多いだろう。しかし、実際にこの制度を活用して事業を推進したスタートアップは、日本ではまだ多くない。2018年の「生産性向上特別措置法」で導入された日本版規制サンドボックスは、2026年現在、どのような進化を遂げているのか。
この記事では、規制サンドボックスの最新動向を整理し、特にフィンテックとヘルステック領域における注目すべき事例と、2026年以降の展望を分析する。
規制サンドボックスとは何か
規制サンドボックス(Regulatory Sandbox)とは、新しいビジネスモデルや技術を持つ企業が、既存の規制の適用を一時的に猶予・緩和された環境で実証実験を行える制度だ。「砂場」(サンドボックス)の中では、子供が自由に遊べるように、企業は規制に縛られずに新しい挑戦ができる。
この制度の目的は、以下の3つだ。
- イノベーションの促進:既存の規制が新しいビジネスモデルの障壁になっている場合に、実証実験の機会を提供する。
- エビデンスベースの規制改革:実証実験の結果をデータとして蓄積し、規制の見直しに活用する。
- 消費者保護とイノベーションのバランス:完全な規制撤廃ではなく、管理された環境での実験を通じて、リスクを最小化しながらイノベーションを推進する。
日本の規制サンドボックス:これまでの歩み
第1フェーズ(2018〜2020年):制度の立ち上げ
2018年6月に「生産性向上特別措置法」が施行され、日本版規制サンドボックスがスタートした。内閣官房に「新技術等実証制度」の窓口が設置され、企業からの申請を受け付ける体制が整った。
しかし、初期の実績は芳しくなかった。制度の認知度が低く、申請手続きが複雑で、審査にも時間がかかった。2020年末時点での認定件数は20件程度に留まった。
第2フェーズ(2021〜2023年):制度の改善
岸田政権の「スタートアップ育成5か年計画」に規制サンドボックスの活用促進が盛り込まれ、制度の改善が進んだ。
- 申請手続きの簡素化(オンライン申請の導入)
- 審査期間の短縮(原則3ヶ月以内)
- 省庁横断的な調整機能の強化
- 実証実験の期間延長(最大3年)
この結果、認定件数は増加し、2023年末時点で累計50件を超えた。
第3フェーズ(2024年〜現在):本格活用期
2024年以降、規制サンドボックスは「知る人ぞ知る制度」から「スタートアップの標準的なツール」へと変化しつつある。特にフィンテックとヘルステックの分野で、注目すべき事例が増えている。
フィンテック領域の注目事例
事例1:暗号資産を活用した国際送金
A社(東京・フィンテック、設立2022年)は、暗号資産(ステーブルコイン)を中間通貨として活用した国際送金サービスの実証実験を行っている。
現行の資金決済法では、暗号資産を送金の中間手段として使用する場合の規制が不明確だった。A社は規制サンドボックスを活用して、限定された参加者(100名)と限定された送金額(1回あたり10万円以下)の条件で実証実験を開始。
結果として、従来の銀行送金と比較して送金手数料が80%削減、送金時間が3営業日→30分に短縮された。このデータは、金融庁における資金決済法の改正議論に直接的に活用されている。
事例2:AIによる信用スコアリング
B社(大阪・フィンテック、設立2023年)は、従来の信用情報機関のデータに加え、SNSの投稿パターン、オンラインショッピングの履歴、スマートフォンの利用パターンなどの「オルタナティブデータ」を活用した信用スコアリングモデルの実証実験を行っている。
個人情報保護法との整合性が最大の課題だった。規制サンドボックスの枠組みの中で、参加者からの明示的な同意取得プロセスを設計し、データの匿名化・仮名化の基準を確立した。
実証実験の結果、従来の信用スコアリングでは「スコアなし」(金融サービスにアクセスできない)と判定されていた層の60%に対して、適切な信用スコアを付与できることが判明。金融包摂(Financial Inclusion)への貢献が期待されている。
事例3:組み込み型保険(Embedded Insurance)
C社(東京・インシュアテック、設立2021年)は、ECサイトの決済画面に保険商品を組み込むサービスの実証実験を行っている。例えば、カメラを購入する際に「落下・水没保険」をワンクリックで付帯できる仕組みだ。
保険業法では、保険の募集行為に対して厳格な規制がある。ECサイト上での保険販売が「募集行為」に該当するかどうかが論点だった。規制サンドボックスの中で、消費者保護を確保しつつ、簡素化された告知・説明プロセスの有効性を検証している。
ヘルステック領域の注目事例
事例4:AIによる画像診断支援
D社(東京・ヘルステック、設立2020年)は、AIを活用した皮膚科の画像診断支援システムの実証実験を行っている。患者がスマートフォンで撮影した皮膚の画像をAIが分析し、疾患の可能性を推定するサービスだ。
薬機法(医薬品医療機器等法)では、AIによる診断支援は「プログラム医療機器」として規制の対象になる可能性がある。規制サンドボックスの枠組みの中で、以下の条件で実証実験を実施した。
- AIの推定結果はあくまで「参考情報」として提示し、最終診断は医師が行う
- 対象疾患を一般的な皮膚疾患(湿疹、ニキビ等)に限定
- 参加者は1000名、実証期間は1年
結果として、AIの推定精度は皮膚科専門医と同等の92%を達成。特に、皮膚科医が不足している地方での遠隔診療への応用が期待されている。
事例5:処方薬のドローン配送
E社(福岡・ヘルステック/ドローン、設立2022年)は、過疎地域における処方薬のドローン配送の実証実験を行っている。
航空法、薬機法、道路交通法など、複数の規制が絡む複雑な事例だ。規制サンドボックスの省庁横断的な調整機能が活用され、国土交通省、厚生労働省、警察庁が連携して実証実験の枠組みを設計した。
実証実験は福岡県の離島で実施。薬局からドローンで処方薬を配送し、受け取り側のIoTロッカーで患者が本人認証(マイナンバーカード)を行って受け取る仕組みだ。配送時間は従来の船便(週2回)から、最短30分に短縮された。
事例6:ウェアラブルデバイスによる慢性疾患モニタリング
F社(東京・ヘルステック、設立2023年)は、ウェアラブルデバイスで糖尿病患者の血糖値を連続モニタリングし、AIがインスリン投与量を推奨するシステムの実証実験を行っている。
この事例は、薬機法上の「プログラム医療機器」規制と、医師法上の「医行為」の範囲が論点になった。AIがインスリン投与量を「推奨」することが医行為に該当するかどうか。規制サンドボックスの中で、「推奨」と「指示」の境界線を実証的に検証している。
2026年以降の展望
規制サンドボックス2.0
政府は2026年度中に、規制サンドボックス制度の大幅な拡充を予定している。主な改正点は以下の通りだ。
- 地域限定型サンドボックスの導入:特定の地域(国家戦略特区と連携)で、より大規模な実証実験を可能にする
- クロスボーダーサンドボックス:ASEAN諸国との相互認証により、日本で認定された実証実験を他国でも展開可能にする
- AI規制サンドボックス:AI特有のリスク(バイアス、説明可能性、プライバシー)に対応した専門のサンドボックス枠組み
- グリーンサンドボックス:脱炭素技術に関する規制緩和を促進するための専門枠組み
期待される領域
2026年以降、規制サンドボックスの活用が特に期待される領域は以下の通りだ。
1. 自律分散型金融(DeFi)
ブロックチェーン上の分散型金融プロトコルの規制枠組みが世界的に議論されている。日本が先行して規制サンドボックスでDeFiの実証実験を行うことで、グローバルな規制議論をリードする可能性がある。
2. 生成AIの医療応用
大規模言語モデル(LLM)を活用した医療相談、診断支援、治療計画の策定。安全性と有効性の検証を、規制サンドボックスの中で効率的に行うことが期待される。
3. 自動運転の商用化
レベル4自動運転の商用サービス展開に向けて、特定地域での実証実験が加速する見込み。道路運送車両法、道路交通法の適用除外を、規制サンドボックスの枠組みで実現する。
4. 宇宙ビジネス
小型衛星の打ち上げ、宇宙資源の利用、宇宙旅行など、宇宙関連ビジネスの規制枠組みは未整備な部分が多い。規制サンドボックスは、この新興分野の規制設計において重要な役割を果たすだろう。
スタートアップが規制サンドボックスを活用するためのステップ
最後に、規制サンドボックスの活用を検討しているスタートアップ向けに、具体的なステップを整理する。
- 規制の壁を明確にする:自社のビジネスモデルのどの部分が、どの法律のどの条項に抵触する可能性があるかを特定する。弁護士の支援が不可欠。
- 実証実験の設計:何を、どのような条件で、どのくらいの期間実証するのかを具体的に設計する。測定指標(KPI)を事前に定義する。
- 申請書の作成:内閣官房の「新技術等実証制度」のウェブサイトから申請書をダウンロードし、記入する。事前相談の窓口も設けられているので、積極的に活用する。
- 所管省庁との調整:規制サンドボックスの事務局が、所管省庁との調整を仲介してくれる。ただし、事前に所管省庁との非公式な対話を行っておくと、プロセスがスムーズになる。
- 実証実験の実施とデータ収集:認定を受けたら、計画通りに実証実験を実施し、データを収集する。このデータが、規制改革の議論に直接活用される。
- 結果の公表と政策提言:実証実験の結果を公表し、規制改革に向けた具体的な提言を行う。メディアへの発信も重要だ。
規制サンドボックスは、スタートアップにとって「規制と戦う」ための武器ではない。「規制と共に進化する」ための対話の場だ。規制当局もイノベーションを阻害したいわけではない。消費者保護とイノベーション促進のバランスを、データに基づいて見つけていくプロセスに、スタートアップが主体的に参加する。それが規制サンドボックスの本質だ。
2026年は、日本の規制サンドボックスが本格的に機能し始める年になるだろう。この機会を活用できるスタートアップが、次の10年のリーダーになる。









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