2023年度税制改正で導入された「スタートアップへの再投資に対する非課税措置」(いわゆるスタートアップ減税)は、日本のスタートアップエコシステムにどのような影響を与えているのか。施行から約2年が経過した今、その効果を検証する。
スタートアップ減税の概要
まず、制度の内容を整理する。スタートアップ減税には、主に以下の3つの柱がある。
1. エンジェル税制の拡充
個人投資家がスタートアップに投資した場合の税制優遇が大幅に拡充された。具体的には以下の通りだ。
- 優遇措置A(投資時点):投資額から2000円を引いた金額を、その年の総所得金額から控除。上限は総所得金額の40%と800万円のいずれか低い方。
- 優遇措置B(投資時点):投資額全額を、その年の株式譲渡益から控除。上限なし。
- 譲渡時の優遇:株式を売却して利益が出た場合、取得価額を投資額の2分の1とみなす特例(実質的な税負担軽減)。
2023年の改正では、優遇措置Bの対象がプレシード・シード期の企業にまで拡大された。これにより、リスクの高い初期段階の投資にも税制優遇が適用されるようになった。
2. ストックオプション税制の改正
スタートアップの人材獲得を支援するため、ストックオプション(SO)の税制が改正された。
- 年間権利行使限度額の引き上げ:従来の1200万円から最大3600万円に引き上げ。設立5年未満の企業は上限が特に緩和された。
- 対象者の拡大:社外の高度専門人材(アドバイザー、顧問など)もSO付与の対象に含まれるようになった。
3. オープンイノベーション促進税制
大企業がスタートアップに出資した場合、出資額の25%を所得控除できる制度。CVC(コーポレートベンチャーキャピタル)を通じたスタートアップ投資を促進する狙いだ。
データで見る効果
制度施行から約2年。公開データと業界関係者への取材を基に、効果を検証する。
エンジェル投資の動向
日本ベンチャーキャピタル協会(JVCA)の統計によれば、エンジェル投資の金額は以下のように推移している。
| 年度 | エンジェル投資総額(推計) | 前年比 |
|---|---|---|
| 2022年 | 約200億円 | – |
| 2023年 | 約250億円 | +25% |
| 2024年 | 約320億円 | +28% |
| 2025年(推計) | 約380億円 | +19% |
エンジェル投資の総額は着実に増加している。ただし、これがすべてスタートアップ減税の効果かと言えば、そう単純ではない。世界的なスタートアップ投資の回復基調、日本国内の起業機運の高まり、メディアでの起業家の露出増加など、複合的な要因が絡んでいる。
業界関係者の間では、「エンジェル税制の拡充は、既にエンジェル投資をしていた層の投資額を増やす効果はあったが、新たにエンジェル投資を始める層を大幅に増やす効果は限定的」という見方が多い。
スタートアップの設立件数
法務省の登記統計によれば、新規法人設立件数は以下の通りだ(IT・テック系に限定した統計は公式には存在しないため、全業種の数字)。
| 年度 | 新規法人設立件数 | 前年比 |
|---|---|---|
| 2022年 | 約14.4万件 | – |
| 2023年 | 約15.2万件 | +5.6% |
| 2024年 | 約15.8万件 | +3.9% |
| 2025年(推計) | 約16.3万件 | +3.2% |
設立件数は増加傾向にあるが、伸び率は鈍化している。スタートアップ減税が設立件数に直接的な影響を与えたとは言い難い。減税はあくまで「投資側」のインセンティブであり、「起業側」のインセンティブは別の政策が必要だ。
ストックオプションの活用状況
SO税制の改正は、特にシリーズA〜B段階のスタートアップで歓迎されている。年間権利行使限度額の引き上げにより、優秀なエンジニアやビジネス人材の採用で大手企業との競争力が向上した。
しかし、課題もある。SO税制の恩恵を受けるための要件が複雑で、専門家(弁護士・税理士)のサポートなしには正しく運用できないという声が多い。特に、「適格SO」の要件を満たすための手続きが煩雑だという指摘がある。
海外との比較
日本のスタートアップ減税の効果を評価するには、海外の制度との比較が有益だ。
イギリス:EIS/SEIS
イギリスのEIS(Enterprise Investment Scheme)とSEIS(Seed Enterprise Investment Scheme)は、世界で最も成功したスタートアップ税制として知られる。
- SEIS:投資額の50%を所得税から控除(上限10万ポンド)
- EIS:投資額の30%を所得税から控除(上限200万ポンド)
- キャピタルゲイン非課税:3年以上保有した株式の売却益は非課税
- 損失控除:投資先が失敗した場合、損失を所得税から控除可能
イギリスのEIS/SEISは、「投資時の税控除」「成功時の非課税」「失敗時の損失控除」という三重の安全網を提供している。日本のエンジェル税制と比較すると、特に「失敗時の損失控除」の手厚さが際立つ。
フランス:French Tech Visa
フランスはスタートアップ減税に加えて、「French Tech Visa」という外国人起業家向けのビザ制度を導入し、海外からの起業家・投資家の誘致に成功している。税制だけでなく、ビザ制度や居住環境を含めた包括的なエコシステム支援が特徴だ。
シンガポール
シンガポールは法人税率17%(実効税率はさらに低い)に加え、スタートアップ向けの法人税免除制度(SUTE)を提供。設立3年以内の企業は、最初の10万シンガポールドルの課税所得の75%が免除される。
識者の見解
スタートアップ減税の効果について、異なる立場の識者の見解を紹介する。
VC側の見解
「エンジェル税制の拡充は前進だが、まだ不十分。イギリスのEIS並みの控除率(30〜50%)を実現しないと、富裕層の資金をスタートアップに向かわせるインセンティブとしては弱い」(大手VCパートナー)
起業家側の見解
「SO税制の改正は本当にありがたい。以前は年間1200万円の上限のせいで、大手企業から優秀なエンジニアを引き抜くのが難しかった。3600万円まで上がったことで、『うちに来れば3年で1億円の価値になるSOを出せる』と言えるようになった」(シリーズBスタートアップCEO)
政策専門家の見解
「スタートアップ減税は必要条件だが十分条件ではない。税制だけでなく、規制緩和、公共調達でのスタートアップ優遇、大企業との人材流動性の促進など、エコシステム全体の底上げが必要。税制はパズルの1ピースに過ぎない」(経済産業省OB・スタートアップ政策研究者)
今後の課題と提言
現行のスタートアップ減税をベースに、今後さらに強化すべき点を提言する。
提言1:エンジェル税制の控除率引き上げ
現行の「所得控除」を「税額控除」に変更し、控除率を30%以上に引き上げる。所得控除と税額控除では、投資家にとっての実質的なメリットが大きく異なる。
提言2:失敗時のセーフティネット強化
投資先スタートアップが倒産した場合の損失控除を拡充する。現行制度では株式譲渡損失としてのみ計上可能だが、総所得からの控除を認めるべきだ。
提言3:手続きの簡素化
エンジェル税制の申請手続き、SOの適格要件の確認手続きを大幅に簡素化する。オンラインで完結する仕組みを構築し、専門家なしでも運用できるレベルにする。
提言4:地方スタートアップへの上乗せ措置
東京一極集中を是正するため、地方に本社を置くスタートアップへの投資に対して、追加の税制優遇を設ける。
提言5:定期的な効果検証の制度化
スタートアップ減税の効果を定期的(年次)に検証し、データに基づいて制度を改善する仕組みを制度化する。現状では、制度の効果を測定するための公式なデータ収集体制が不十分だ。
日本のスタートアップエコシステムは、まだ発展途上にある。スタートアップ減税は重要な一歩だが、それだけでは十分ではない。税制、規制、人材、資金、文化——これらすべてが噛み合って初めて、日本はアジアにおけるスタートアップの中心地になれる。その実現に向けて、政策の継続的な改善と、エコシステム全体の底上げが求められている。








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